あくあん's blog

つらつらと書きます。最近はカメラの話。書評やガジェットの話なども。

笑顔KPI

アリストテレスは幸福こそ人が目指すべきもの、と主張したらしい。数々の哲学者や宗教も、この主張の影響を受けるにせよそうでないにせよ、大まかに人生の最高善は幸福であること、という定義づけをしている。そして、幸福に生きるためには利他的に振る舞え、施しをせよ、という主張も、これまた宗教やら経営者やらがしばしば説くことである。

 

愛だとか幸福だとかの単語は抽象的で、今ひとつ実感として飲み込みにくい。年収だとか居住地だとか、人は他人と比較可能なラベルに一喜一憂して、不毛とも思える妬み僻みやら言い争いをすることは絶えないが、なんとなくこれらを極めていっても、少なくとも幸福という概念に直結はしなさそうというのは感覚的に分かる。

 

最近、この愛だとか幸福だとかが、少しずつ自分の中で腹落ちしたり言語化したりしてきたのかな、と思う。愛や幸福そのものはわからないが、幸せにつながるものは何かと聞かれたら、今の私は「自分や周りの人が笑顔であること」と定義したい。感覚的なものだが幸せとは過去のものであり、過去の"幸せだった"瞬間が積み重なったものを振り返るとき、人は幸せを感じると思っている。

 

その刹那的なシーンを思い返すと、ほとんどの場合、家族といて何か他愛も無い話で盛り上がっていたり、友人とゲームや外出をしていたり、素敵な場所で食事を共にしたり、というように、程度こそ様々だが自分を含めて笑顔があったのではないか、という推測が立つ。笑顔を無理矢理でも作ると脳が心地よい状態と錯覚する、なんて眉唾物な話もあるが、少なくとも笑顔はシーンを幸せなものとして形成するための必要条件と感じられてくるのは事実だ。(ただ、それは私が衣食住が満ち足りているから、というこれまた"幸せ"な状況にあるからと言われたらそれは否定できない。)

 

このように考えるとやるべきことや道筋はひどく明らかで、自分の長くはない人生で幸せを最大目標とするならば、些細な生き方・生活の仕方の違いに捉われず、笑顔をより多くすることをKPIとして行動すればいいのではないだろうか。自分の行動で直接的、または間接的に他人を笑顔にできたら、そして自分自身も笑顔になれるような心がけや習慣ができればベストであり、それが難しくても、少なくとも自分の言動や行動で何らかプラスになるようであれば、それはそのまま幸せへの道につながっているようにも思える。

 

具体的な行動例で言えば非常に小さなもので、イライラしない、顔を上げる(下を向く癖をつけない、青空を視界に入れる)、感謝や賞賛をストレートに恥ずかしがらず伝える、ポジティブに話す、といったシンプルなものなのかなと思う。大層なことをしても一発で大きな幸せを掴るようには人生はできていないようだし、コツコツとした積み重ねがフィードバック的に、そして複利的に幸せポイントを増やしていく近道なのだろう。

 

小学校から幾度となく教えられるような上記の行動例も、大人になってみると実践は非常に難しいことがわかる。謎に10代のままの感性が残っていたり、変なプライドが出たり、その日の不調で気持ちが沈みそうだったり、建前としての表情と本音としての心情の分別がつきづらかったり。これらをうまく取り除いたりマネージメントすることこそ、大人らしさというものなのではないだろうか。

 

幸せではなく不幸せから身を守るテクニカルなTipsとして、イライラするようなものから遠かったり、問題と思えるような事柄をより大きく広い目線で捉え直したりといった思考面での方法や、深呼吸をして体の調子を整えたり、夜は電気を暗めにして温かいものを飲んだりといった身体面での方法もあるだろう。このような不快要素からの逃避は重要だし実践すべきだが、あくまで笑顔KPIを増やすための基礎・土台として重要なのであって、(自分・他人あわせた)笑顔数というKPIを向上させるのに直接役立つわけではないというのは認識しておきたい事柄だ。

 

日常の笑顔という側面を少し離れ、もう少し中長期的なタイムスケールでのKPIへのコミットを考えてみる。すると、いわば投資的な行動の必要性も見えてくるだろう。具体的には、結婚・出産(パートナーと共に生きる、家族と共に生きる)、親族付き合い(自分のルーツを知る、親族の話を聞いておく)、家の購入(暮らしやすい環境を手にいれる、換金性の高い資産を手にいれる)、趣味などの家庭・職場以外でのコミュニティ確保など、行動してすぐに直接的な利益が出てくることは多くなかったり、金銭的または心理的なコストが大きいものだったりする行動だ。なお、貯金や資産形成はKPIを増やすものの、影響がせいぜい自分止まりになりがちで、他人も含めた笑顔KPI観点での投資的な行動とは言いづらい。

 

人はある程度中長期的な将来も見据えて行動を取る必要がある。というよりも、上記のような投資的行動は、日常の笑顔と比較すると即効性はないものの、長いスパンで見るとKPIへの影響が1桁、2桁、下手すると3~5桁のレベルで異なってくる。であれば、幸せという目標を達成するためには、KPIを増やすための投資行動は合理的なはずだろう。

余談だが、子どもが生まれると(少なくとも数年は)親族や家族、そして自分の笑顔は如実に増えるので、笑顔KPIでみると明らかにプラスと言える行動になる。もちろんさまざまな意思決定や合意・ケアなどが必要ではあるが。

 

これは非常にニッチな例だが、著名人や大富豪が(趣味の一環として)美術館などを建てるなどの、いわゆるメセナ的行動をすることもある。これも、運営するための雇用を生む・来館する人の興味を喚起させる・関連する美術館や学術分野がわずかでも盛り上がる、といった観点では、他人に少なくともプラスの影響を与えている。影響を受ける人たちが笑顔にまでなるかどうかは分からないが(大人は笑顔閾値の高い悲しい生き物である)、その人たちの気持ちをいくぶんかプラス方向に持っていくことはできるだろう。そういう意味で、広義の笑顔KPIへのコミットなのかもしれない。

 

笑顔KPIを高めるために、打算的でありすぎる必要はないと思っている。むしろ、目指すべきは孔子の『七十にして矩を踰えず(70歳になって、思うままに行動しても人の道を外さなくなった)』という状態だろう。孔子風にいうなら、打算的なことを考えず、自分のやりたいように物事をやっても、自然と笑顔KPIを満たせるようになった、という感じだろうか。

 

私は中島みゆきの楽曲が好きだが、その中でも特に『愛だけを残せ』という曲が気に入っている。よくよく考えると、この曲も本質的なメッセージは上記のような、自分の周りの笑顔を増やせ、というものなのかもしれない。結局のところ人が他人に残したり与えたりすることができるのは、ひとまとめにすると『愛』というか。実際物欲など私利私欲から逃れるのは難しいものでもあるが、自分の時間、資産、体力、ノウハウなどといった限られたリソースのうち、少しくらいは愛として施しをする・他人の笑顔を引き出せるような行動をする、というのに割り当てるのも、悪いことでもないと思う。例の曲に倣うなら、それこそが、自分という存在の証になるのだから。